渋沢栄一って誰?何した人?新一万円札に選ばれた理由とは

新元号令和の発表直後に今度は新紙幣の発行が発表されました。

その肖像には一位万円札が渋沢栄一、五千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎が選ばれました。

しかし、見事に知らない(笑)

ちょっと恥ずかしいのでこの機会に少し勉強してみました。

今回は新一万円札の渋沢栄一って誰なのか、何をした人なのか、をわかりやすくまとめました。

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渋沢栄一って誰?

新一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一。

まずは簡単なプロフィールからどうぞ。

写真
名前 渋沢栄一(幼名:栄二郎)
生誕 1940年3月16日(天保11年2月13日)
1931年11月11日(満91歳)
出身 武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)

豪農であった渋沢家の長男として生まれ、幕臣として仕え、大蔵省で務め、実業家へとなっていきました。

豪農って?

多くの土地と権威を持っている富裕農家のこと。

渋沢栄一って何した人?

新一万円札の肖像に選ばれるくらい凄い人物なのになぜ知らなかったのでしょう^^;

結局渋沢栄一って何した人?って聞かれたときにどう答えるのが正解なのか。

調べるといろいろなことをやっているので説明が非常に難しいです。

敢えてわかりやすく一言で何した人かを表すのならば、

実業家として日本の資本主義の発展を支えた人

になると思います。

誰が聞いてもわかるくらいのわかりやすい例で言うと、

第一国立銀行(現みずほ銀行)
東京海上火災保険(現:東京海上日動火災保険)
王子製紙(現王子製紙・日本製紙)
京阪電気鉄道
東京証券取引所
麒麟麦酒(現:キリンホールディングス)
サッポロビール(現:サッポロホールディングス)
東洋紡績(現:東洋紡)

などの会社の創立に携わり、500以上もの会社の創設に関わっているのです。

また、こういった実業界だけではなく、

東京高等商業学校
高千穂高等商業学校
大倉高等商業学校
東京高等蚕糸学校
岩倉鉄道学校

などの創立にも関わり、近代教育の発展に大きく貢献しています。

さらには

日本国際児童親善会(アメリカとの交流)
中華民国水災同情会会長(災害に対する義援金を募る)
東京市養育院(恵まれない子供たちを救う)
東京慈恵会
日本赤十字社

などにも携わり、民間外交、社会貢献、公共社会福祉事業にも力を注ぎます。

まさに、日本の資本主義の発展に貢献した随一の人とも言え、日本の一番高額紙幣である1万円札の肖像に選ばれるにふさわしい人物と言っていいでしょう。

渋沢栄一の詳しい生い立ちと経歴

こんなにすごい人だった渋沢栄一。

詳しい生い立ちと経歴をまとめていきます。

 

豪農であった渋沢家の長男として生まれた渋沢栄一。

家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝いながら商才を育み、論語の学習も行いました。

藍玉って?

藍玉とは藍の葉を発酵・熟成させた染料のことで、阿波(徳島)のものが良質として有名。
明治以降はインド産の流入、化学染料などによる人工化により衰退していく。

その後、尊王攘夷の思想の影響を受け、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画を立てるも断念。

尊王攘夷って?

江戸末期に広まった思想で、天皇を敬う「尊王」と外国の敵を打ち払う「攘夷」が合わさったものです。

一橋慶喜に仕え、欧州各国を回ることで先進諸国の内情を学んでいきます。

明治維新後、民部省の租税正、大蔵省の大蔵権大丞など、政府の大蔵省の一員として新しい国づくりに深くかかわっていきます。

国立銀行条例の制定や第一国立銀行(現みずほ銀行)の設立に携わったのもこの頃です。

 

明治6年(33歳)に実業家へと転身し、王子製紙会社、大阪紡績会社、東京海上保険会社、共同運輸などの創立を手掛けていきました。

500以上もの会社、教育機関、民間外交、社会公共事業に関わり、貢献し、昭和6年に91歳で永眠されました。

 

物凄いスピードで駆け上がり、圧倒的な行動力で日本の発展に大きな貢献をしました。

さらに詳しい経歴を年譜にしてまとめました。

渋沢栄一の年譜
西暦 和暦 年齢 主なできごと
1840 天保11年 0 2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。
1847 弘化4年 7 従兄尾高惇忠から漢籍を学ぶ。
1854 安政1年 14 家業の畑作、養蚕、藍問屋業に精励。
1858 安政5年 18 従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚。
1863 文久3年 23 高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。
1864 元治1年 24 一橋慶喜に仕える。
1865 慶応1年 25 一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡歴。
1866 慶応2年 26 徳川慶喜、征夷大将軍となり、 栄一は幕臣となる。
1867 慶応3年 27 徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)。
1868 明治1年 28 明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
1869 明治2年 29 静岡藩に「商法会所」設立。 明治政府に仕え、民部省租税正と なる。 民部省改正掛掛長を兼ねる。
1870 明治3年 30 官営富岡製糸場設置主任となる。
 
1871 明治4年 31 紙幣頭となる。『立会略則』発刊。
1872 明治5年 32 大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。
1873 明治6年 33 大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。
抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。
1874 明治7年 34 東京府知事より共有金取締を嘱託される。
1875 明治8年 35 第一国立銀行頭取。
商法講習所創立。
1876 明治9年 36 東京会議所会頭。 東京府養育院事務長(後に院長)。
1877 明治10年 37 択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。
王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。
1878 明治11年 38 東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。
1879 明治12年 39 グラント将軍(元第18代米国大統領)歓迎会
(東京接待委員長)。
1880 明治13年 40 博愛社創立・社員(後に日本赤十字社・常議員)。
1882 明治15年 42 ちよ夫人永眠。
1883 明治16年 43 大阪紡績会社工場落成・発起人(後に相談役)。
伊藤かねと再婚。
1884 明治17年 44 日本鉄道会社理事委員(後に取締役)。
1885 明治18年 45 日本郵船会社創立(後に取締役)。
東京養育院院長。
東京瓦斯会社創立(創立委員長、後に取締役会長)
1886 明治19年 46 「竜門社」創立。 東京電灯会社設立(後に委員)。
1887 明治20年 47 日本煉瓦製造会社創立・発起人(後に取締役会長)。
帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。
1888 明治21年 48 札幌麦酒会社創立・発起人総代(後に取締役会長)。
東京女学館開校・会計監督(後に館長)。
1889 明治22年 49 東京石川島造船所創立・委員(後に取締役会長)。
1890 明治23年 50 貴族院議員に任ぜられる。
 
1891 明治24年 51 東京交換所創立・委員長。
1892 明治25年 52 東京貯蓄銀行創立・取締役(後に取締役会長)。
1895 明治28年 55 北越鉄道会社創立・監査役(後に相談役)。
1896 明治29年 56 日本精糖会社創立・取締役。
第一国立銀行が営業満期により第一銀行となる。
引続き頭取。
日本勧業銀行設立委員。
1897 明治30年 57 澁澤倉庫部開業(後に澁澤倉庫会社・発起人)。
1900 明治33年 60 日本興業銀行設立委員。 男爵を授けられる。
1901 明治34年 61 日本女子大学校開校・会計監督。(後に校長)
東京・飛鳥山邸を本邸とする。
1902 明治35年 62 兼子夫人同伴で欧米視察。ルーズベルト大統領と会見。
1904 明治37年 64 風邪をこじらせ長期に静養。
1906 明治39年 66 東京電力会社創立・取締役。
京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。
1907 明治40年 67 帝国劇場会社創立・創立委員長(後に取締役会長)。
1908 明治41年 68 アメリカ太平洋沿岸実業家一行招待。
1909 明治42年 69 多くの企業・団体の役員を辞任。
渡米実業団を組織し団長として渡米。 タフト大統領と会見。
1910 明治43年 70 政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。
1911 明治44年 71 勲一等に叙し瑞宝章を授与される。
1912 大正1年 72 ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。
帰一協会成立。
1913 大正2年 73 日本結核予防協会創立・副会頭。(後に会頭)
日本実業協会創立・会長。
1914 大正3年 74 日中経済界の提携のため中国訪問。
1915 大正4年 75 パナマ運河開通博覧会のため渡米。
ウイルソン大統領と会見。
 
1916 大正5年 76 第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。
日米関係委員会が発足・常務委員。
1917 大正6年 77 日米協会創立・名誉副会長。
1918 大正7年 78 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。
1919 大正8年 79 協調会創立・副会長。
1920 大正9年 80 国際連盟協会創立・会長。
子爵を授けられる。
1921 大正10年 81 排日問題善後策を講ずるため渡米。
ハーディング大統領と会見。
1923 大正12年 83 大震災善後会創立・副会長。
1924 大正13年 84 日仏会館開館・理事長。
東京女学館・館長。
1926 大正15年 86 日本太平洋問題調査会創立・評議員会長。
日本放送協会創立・顧問。
1927 昭和2年 87 日本国際児童親善会創立・会長。
日米親善人形歓迎会を主催。
1928 昭和3年 88 日本航空輸送会社創立・創立委員長。
日本女子高等商業学校発起人。
1929 昭和4年 89 中央盲人福祉協会創立・会長。
1930 昭和5年 90 海外植民学校顧問。
1931 昭和6年 91 11月11日永眠。

引用:https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/chrono.html

まとめ

以上で「渋沢栄一って誰?何した人?新一万円札に選ばれた理由とは」を終わります。

日本に生まれ、育ちながらこんなにすごい人を良く知らなかったのは少し恥ずかしいです^^;

けど、テレビでも取り上げられていますが、同じように知らない人も多いとのこと。

新紙幣が発行されるのは2014年とまだまだ先ですが、この機会に渋沢栄一のことを学んで知っておきましょう。

福沢諭吉もよかったですが、渋沢栄一も福沢諭吉に劣らない新一万円札の肖像にふさわしい人物だと思います。

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